うっかり誰かを蹴らないために。
暴力はダメです。
※これは、とある日本語Substackコミュニティ内での暴力をめぐる議論に関し、思想史的に整理し展開した試論です。議論全体に目を配って書くことが難しく、また一部だけ切り出すと意図と異なる読み方になりやすいため、その点だけご留意ください。
なぜこのような当たり前のことを書かなければならないのかと思いますが、暴力はダメです。政治的・思想的目的のために、無関係な人や民間人を殺傷する暴力はだめです。
そうではなく、非暴力の抵抗をどう楽しむか、安全に語りましょう。誰でも安全に、特にマイノリティが安全に参加できることが重要です。
(植民地支配への抵抗、自己防衛、市民の安全や秩序を害しない程度の警察権力など、より詳細に議論できる部分はありますが、それらは暴力はダメという前提に立っています。暴力を抑えるために、これらはどの程度許容されるか、という議論であるべきです。)
違いや区別と、差別とは違います。
残念ですが、人間の社会には、両方あります。片方ではありません。
手の大きさの違いや、髪の太さの違いは、ただの違いで、そこから差別が発生することは少ない。
それに対し、肌の色の違いは、ただの違いのはずですが、人のせいでそこから差別が発生してしまっています。
力が存在することや、力の差が存在することと、暴力とは違います。
残念ですが、人間の社会には、両方あります。片方ではありません。
あなたと私の力の差は、ただの力の差であって、暴力ではない。
それに対し、植民地の人々と植民した人々の力の差は、ただの力の差ではなく、暴力によって作られ、人々を虐げる差です。
そしてどんな理由があっても、関係のない人に、暴力を振るうのはアウトです。
だって、暴力を振るわれたら嫌ですし、暴力を発生させないための秩序まで壊す危険性があるからです。
だから、「暴力でしか変わらない」という言説は、危険なのです。
どんなに社会が暴力に覆われているように見えても、です。
「社会が全て差別と暴力でできているかどうか」という問いの立て方に、引きずられません。
このように書くのは、暴力について語るなら、せめてこのような語りでなければ、言語の性質上、どこかから倫理的に崩れていく可能性があるからです。だから、あえてそうします。
倫理的に崩れていく可能性のある危うい語りは、しません。
より具体的に話しましょう。
現代日本人があまりしていないのは、権力に対する非暴力の抵抗です。
時々発生してしまうのは、絶望や自分の正しさを信じた人による、無関係の人への暴力です。
後者はダメです。
それに関して困ったところの一つは、非暴力の抵抗を暴力的と感じる、もしくは非暴力の抵抗を暴力と見做す傾向でしょう。特に、小規模なデモのようなかなり影響の小さな非暴力の抵抗ですら暴力と呼ぶのは、他者の非暴力の抵抗の権利を奪うという意味で、暴力的です。
それに対して、まさに、一人デモや平和的なデモに足を運んでおられる皆様が、非暴力の抵抗を実際に行うことで、そうした現状が少しずつ平和的に変更されていく。
それに関して良いところは、民間人や無関係の人への暴力を倫理的に強く禁じているところです。非暴力の抵抗ですら暴力ではないか精査してしまうほど、それを強く禁じています。
だから、連合赤軍による殺人は苦い記憶で、現代に絶望した人が起こす無差別殺人は誰もが否定するところです。
植民地時代とそこからの脱却の過程での辛い記憶を経て、現代では、民間人を狙う殺人や傷害などの暴力は、たとえ戦時下や支配への抵抗であっても、どんなに本人が正しいと信じ絶望していても、暴力の被害者であっても、違法・戦争犯罪、またはテロという枠組みで評価され、論じられます。
無関係の人を殺傷したらダメだからです。
暴力を振るわれたら嫌ですし、暴力を発生させないための秩序まで壊す危険性があるからです。
無関係の人を殺傷する行為が英雄的に語られることは、これまでに幾度もありました。
幕末の志士による暗殺は英雄譚として語られてきましたが、徐々にテロリズムであったという評価に変わりつつあり、日本赤軍・重信房子も美化されることがあります。
そこには、言葉の空転、制度が変わらないことや正しさが通用しないことへの絶望、リベラルへの不信があり、人々が暴力にさらされている時ほど、しなくて良い暴力が英雄的に語られ、受け入れられる土壌が生まれてしまいます。
しかしそれらも、二・二六事件などの昭和初期のテロ、連合赤軍、最近の無差別殺人も、いずれも正しくないことは明白です。
再度確認すると、私が否定するのは、抵抗そのものではありません。暴力がダメだから、そうでない方向に進む必要がある、という基本を述べています。
抵抗は必要ですが、そこに守るべき線があります。民間人や無関係な人を傷つけないということです。その境界線がずれてくる語りを、私はよしとしません。
もう一度言います。「社会が全て差別と暴力でできているかどうか」という問いの立て方に、引きずられません。
ここで論じるべきは、「社会が全て差別と暴力でできているかどうか」ではなく、「非暴力の抵抗を豊かに楽しくやる」ではないでしょうか。
言葉に限界があるなら、なおさら、言葉と非暴力の抵抗を鍛える必要があります。言葉に絶望したから暴力へ行く、という語りを美しくしてはいけないと思います。



