De-essentializing violence
暴力を本質化しないための思想
※これは、日本語Substackコミュニティ内での暴力をめぐる議論に関し、思想史的に整理し展開した試論です。議論全体に目を配って書くことが難しく、また一部だけ切り出すと意図と異なる読み方になりやすいため、その点だけご留意ください。
現実に「人間社会の全てが差別と暴力でできている」のであったら、耐えられる人間は、ここにもどこにも一人もいないでしょう。それなのに、まるでそうであるかのように議論が続くのを見て不思議に思っています。
まずこの日本語コミュニティでは、暴力の被害を受けたことがあるか、そうでなくても暴力が及ぼす被害に寄り添う人がほとんどです。それが、上記の命題に対し、それぞれの経験に即して、そのネガティブさを、社会全体を暴力と考えて受け止めるか、そうではなく暴力がない方が良いと考えるかで、分かれています。
ヒトの社会を「差別と暴力によって成立している」と記述することも、「そうではない方向へ向かいうるもの」として記述することも、理論上は可能です。
ものすごくざっくり言うと、力が暴力になりうるかどうかという軸に対して、暴力がある方向に振れることはできるが、そもそもその軸にはグラデーションがあるのであり、どの地点を強調するかによって、社会を暴力的にも、非暴力的可能性を持つものとしても語ることができます。
私は面倒だから上記の命題に対し肯定的な展開をやらないだけで、理論上それを想定し書くことはある程度できます(しませんけどね)。
ではどうしたら良いのか。困りました。
まずこれまでの議論を、過去の思想のあり方の中にごく簡略的に位置づけてゆきます。
[1] 古典的実在論・政治哲学の一部
社会秩序の成立条件として、暴力や差別の不可避性を論じるもの。
有名なものがトマス・ホッブズの『リヴァイアサン』における「万人の万人に対する闘争状態 (the war of all against all)」です。これは、ホッブスが考える自然状態における人間の状態を表すために使用された表現です。あくまで、「秩序がなければ、人間は暴力的で、不安定な状態に向かう」「だから国家が必要」という理論の過程で現れたものです。
面白いことに、今出ている、国家の本質は暴力であるという視点とは逆の方向性です。
ここで私が以前tetsujinさんについて書いた部分を引用すると、
私がテキストから推測するtetsujinさんの意図はおよそ
社会には不利益配分がある
それは差別や暴力になりうる
だからそれを直視し制御する必要がある
これも上記と同じく、社会について記述する過程で登場するものです。
両者に共通するのは、記述的に哲学を行い、その過程でそこだけ見れば暴力を肯定的に扱うかのように見える部分が登場する、ということです。証明の途中の文、または途中で設定する条件として出てくるが、それが実際に社会全体に適用されるわけではない。
しかし、SNSのような空間では、こうした命題について全体を記述することもその記述を受け取ることも難しく、「社会の本質=暴力」であるかのように流通しやすい。
[2] ポストコロニアルや反植民地主義思想の一部:
近代における国家暴力や構造的暴力への対抗として、武力抵抗や実力行使を肯定するもの。ポストコロニアルの議論の中には、積極的に武力抵抗を肯定するものがあり、代表的なのがフランツ・ファノンです。
ただし、これらの思想に関しても、暴力は本当に解放をもたらすのか、暴力は新たな支配を生まないか、そして誰が犠牲になるのかについて、常に強い議論と批判が存在します。
現在の国民国家は、せいぜいここ数世紀のものであり、永続的なものではありません。
近代において、国民国家があまりに残虐で暴力的な力を振るったがために、それが永遠に続く本質的な暴力であるかのように見えるとしても、大丈夫です。それがなくなる可能性は十分あります。
ここで重要なのは、国民国家は、永続する常に暴力的な主体なのではなく、力の強さが変化しうる(消滅を含む)、その力が時に暴力として現れうる主体、としてみることです。
ここに、国家の本質は暴力である、という視点の系譜があります。
しかし、
そもそも、これらの理論は近代における国民国家や帝国を対象としている
歴史上、十分暴力的な力を持たない国家は存在してきた
近代において国家が絶望的なほどの暴力を振るってきたのは事実だが、それを絶対化・本質化することにより、それに対抗する現実的な思考や手段の方向性が限定される
歴史上のある時期でのみ有効でありうるものを、社会の本質とみなすことで、その時点の社会に存在する暴力に対抗する暴力以外の方法を見失い、契機を逃す恐れがあります。
これはまさに、エドワード・サイードが『オリエンタリズム』で提起したことと繋がります。オリエンタリズムは、オリエントの人々に対して、暴力的で未熟という否定的な性質をその本質として固定してしまいました。それが現在まで及ぼしている影響は計り知れません。だからサイードは、本質化すること(=essentialise)の問題を指摘したのです。
[1], [2]に関してまとめると、
記述的な哲学の証明の途中における暴力を肯定的に扱うかのように見える部分だけを取り出すことや、国家の本質を暴力とすることは、特定の時期にのみ現れた現象を、本質化してしまう危険を伴います。
「人間社会は全て差別と暴力でできている」と言う命題は実際には不可能なのに、そう語るうちにそれが現実社会にインストールされていたかのようなナラティブが発生します。そして、そのナラティブは当事者が思ってもみない暴力的な方向に進む可能性を持ちます。
では、どうしたら良いのか。
[3] 差異・plurality を重視する思想:
暴力を本質化(essentialise)せず、差異や複数性から、暴力化しない関係性の条件を探るもの。
上記[1], [2]の2つを踏まえたポストコロニアル的な、差異の哲学です。
先ほど述べた通り、上の2つ議論の過程で、暴力をessentialiseする危険が生じます。
ここで暴力が本質であるかどうかを証明しようとすると、できないことがわかります。
暴力が具体的にどのように現れるのかをみていくと、ほぼ必ずそこに、暴力でない部分が現れるからです。(改めて言うと、力が暴力として現れうることを、否定していません。この世界に暴力があること、暴力の被害者とその痛みを、否定していません。)
ここまでの議論がすでに証明している通り、社会に関しては、
非暴力不服従という、こちらは非暴力だが、相手の暴力性は曝け出す形式がある。この時点で、非暴力、すなわち「暴力ではないものの存在」ことが認められている。
暴力に対し、私人による正当防衛、そして植民地化やジェノサイドにおける抵抗権が、ある程度正当なものとして、社会的に認められている。これは、暴力が不当であり、そうではない状態が必要であることを、人間が必要とし、社会が認めているから。
区別と差別、力の存在と暴力の存在は異なる。区別が差別にならない、力が暴力とならない状態が存在しうる。
暴力に対する言論の限界を語る時点で、そしてそれをここで言論で語り続けようとする時点で、暴力でない人の行為が生じている。
暴力の対極にあるものについての語り。この議論の一番最初の議論ですでに「無差別の愛」が記されてあったのであり、その時点で実は暴力のみで成立させるのは困難であったことがわかる。さらに、穏やかな暮らし、被害を受けないこと、生き延びること、安全性などがある。
つまり、暴力が「ある」状態と、暴力が「ない」状態が存在することが、多様な参加者たちの語りを通して証明された。
それは、全てが同じではなく、違いがある、という状態です。この差異があることが重要です。参加者それぞれが違う暴力に対する経験や思考をすることで、その差異が露呈しました。
複数性(Plurality)のある、均一でない参加者たちが、それぞれの差異を語ることで、当初の命題よりずっと現実的な語りになり、社会に即したあり方へ近づき、「全て=暴力」という文法がessentialiseするものを崩し、暴力をde-essentialiseしつつあります。暴力の非本質化です。
他に、同様にessentialise して命題化しうるものを挙げ、命題を作ってみます。
愛「人の社会の本質は全て愛である」
神「世界の全ては神の本質である」
富「人の社会では、富が全てである」
労働「労働の価値が、社会の全てを説明しうる」
不平等「人の社会は全て不平等だ」
理性「人の本質は理性である」
これら、全部について同様に議論をするとしたら、かなり辛いものがあるでしょう。
以上まとめると、暴力を本質として記述することは、暴力を減らしたい、暴力に抵抗したいはずなのに、暴力を絶対化・本質化し、そのナラティブから逃れにくくする可能性を持ちます。
それを相対化し、解体するのは、複数性(Plurality)による、経験に即した語りです。
複数性(Plurality)が、暴力を非本質化(de-essentialise)する可能性を持つのです。
ここで証明されたもう一つのことはおそらく、
「社会の全てを暴力として記述すると、最終的には、人間の生存可能性そのものが崩れてゆく可能性がある」
もし人間社会の全てが差別と暴力だけで成立しているなら、人間は、安心、信頼、ケア、協力、愛着、安全などを一切持てないはずです。しかし現実には、人はそれらなしには生存できません。
これらの議論は、Twitter等の他のSNSでは困難だったでしょう。
このような議論のあり方を参加者として実体験するのは、学生時代以来だと思います。各参加者が、読む上で誤読を最低限に止めることができ、それに対し語りを建設的に重ねてゆく、それは日本語社会で久しくみていなかった光景でした。
気づけばここまで一番多くのテキストを書いてきたであろう者として、このコミュニティの皆様に感謝します。



