体育館の裏で:2つのコンテクスト
2つのコンテクスト
戦後日本において、民主主義的なコンテクストの共有や、教科書的な政治や社会の理解という意味でのコンテクストの共有は、驚くほど達成されなかった。
高級紙やアカデミアでいくら輸入語の欺瞞的もしくは適切な使用を試み続けても、まるでそのネガのような現実の有り様は、日本語世界の持つコンテクストとして生き残り続けてきた。
「市民」「共生」のような市民社会的な日本語からすれば無視していくべき過去のネガのようなそれは、無視していては、現在の事象、特に高市早苗や参政党のような極右的ポピュリズム現象を理解し得ない。
それは非市民社会的であり、高級紙や論文ではうっかり使われることがなく、しかし民衆歌や体育館の裏的SNSを覗いてみれば、いくらでも見つけることができる。
コンテクストの修復
日本語世界に潜むそのコンテクストは、言語として頑強なまでにその実態を反映している。
実態が崩壊もしくは遷移過程にあるがために、コンテクストもその鏡として崩れているように見える。
その状態で、単純にコンテクストの修復を求めることはある種の危険を伴う。修復という意味で現れるそのコンテクストとは、決して市民社会的なものではない。一度も市民社会だったことがないため、修復される場合は、それ以外のものになる。
そう、まさに高市早苗や参政党が体現するような、もう二度と完璧に再現されることはない古い日本である。
それを修復しようとする時、以前と同じ政治・社会的実態が無く、その完全な修復は不可能であるために、つぎはぎで意味をなさない、まるでコンテクストを持たないように見えるものが出現する。
コンテクストと実態
その言語を生きる人の実態と乖離した言葉は、習得が難しい。
日本語の「社会」や「自由」とは何か、西洋のそれとの違いは何かを語るところまで行くには、文章で理解するか、日本語とは異なる言語の実態を知るか、できればその両方が必要で、ハードルが高い。
その意味で、日本語に生きる多くの人々は必ずしも、実態と乖離した言葉の使用をしてきたわけではない。
今でもしっかりと、「社会」と「世間」を混同し、「自由」を我が儘と理解する。
入り込んできたコンテクストに対して、元々のコンテクストが優先されてきたのであって、その意味ではより実態に即している。
ソーシャルメディアが吐き出させたのは、市民社会的日本語圏では表出しにくい、そうした日本語の、より人々に近い実態である。
実態の変遷
その実態は、近世の終わりから現在まで辿ることができそうだ。
自分の置かれた立場の体系に逆らわず、立場のない者も状況を見て自分の分を弁えて行動する。
そのような置かれた場所で生きることが大切で、そうしない我が儘な者には容赦無く罵声を浴びせる。
しかし、江戸時代の終焉とともに家と役の体系の終わりがはじまり、その生き方に対応するはずの明白でわかりやすい構造はもうない。
誰もが、次々に権力関係が変化していじめの標的になりうる教室の中にいるかのように、不安定で救済のない無縁の状態に身を置いている。
農村共同体に権力基盤を置くと思われていた自民党が、自己責任論を語り、過疎地や被災地を堂々と無視し、もう何者であるかわからなくなった。
中根千枝は1974年にクラゲ論を発表し、「日本社会は軟体動物的構造をもつ」と指摘した(『タテ社会の力学』所収)。クラゲというのは、さまざまな例外を持ちつつ息苦しい世の中を構成していた近世と比べればかなり流動化した、戦後の日本語世界のその当時の現状を的確に表した表現と言える。
それから半世紀、その流動性の程度はもはやクラゲではなく、気をつけなければ揮発しそうでピリピリした何かである。
実態の構造
日本にはその軟体構造の、もしくは揮発性のある液状化現象体の、外部がない。
言い換えれば、かつては網野善彦が述べた通り無縁として現世権力の外にあったはずの世間が、いつの間にか一億総無縁の世間になっている。構造の中にいなければ生きていけない仕組みで続けてきたので、構造が融解すると、誰も救済されない。
それゆえ、これまでのコンテクストから離れられずに自己責任論が語られる一方で、セーフティネットが語られ、中道改革連合が生活者ファーストを掲げる。
従来の構造から離れて何とかしたいが、聞き覚えのあるコンテクストに惹かれる人々のために、参政党がある。
さらに言語として衝突を避けようと「ちくちく言葉」の代わりに「ふわふわ言葉」が推奨され、同時に市民社会的言語の使用は減ってゆく。
以上が、日本の実態に即した日本語のコンテクストであり、そこから脱するには、言語が反映する、人々が今も織りなす文脈に耳を澄ませつつ、もう実態とは随分かけ離れた通俗道徳には織り込まれず、通俗道徳が殺してきた人間性のもとで、権力構造から外れても人が人でいられる日本語圏を作っていくことになるだろう。




先週末のこちらの投稿を書いている途中あたりからうっすら気づいていたのですが、昨今のストレスで少し体調を崩しています。ふらふらして活字中毒なのに長文が上手く読めませんが、仕事は大丈夫です。
ポストを読み返すといつもより抽象的で複雑な割にぎっしり詰め込んでいて、勢いがなく、読みにくいですね。それでも読んでくださって、ありがとうございます。
ぼちぼちいきますね。
>誰もが、次々に権力関係が変化していじめの標的になりうる教室の中にいるかのように、不安定で救済のない無縁の状態に身を置いている。
農村共同体に権力基盤を置くと思われていた自民党が、自己責任論を語り、過疎地や被災地を堂々と無視し、もう何者であるかわからなくなった。
「誰も」ではなくて、大多数の一般大衆がそうなのだろう。
だからこそ、特権階級である「上級市民」は自らの立場を守ることを最優先しているのではなかろうか。
三権分立の無効化に、安倍晋三が固執したのもそこからのように感じる。
政治家といえど「一般大衆」から出た者が一定の発言権を握っていた頃の自民党が「農家」を重視せざるを得ない状況を脱したのは
小沢一郎が民生党を立ち上げた時期が、スタートだろう。 非世襲議員を追い出すことで、上級市民の党になったのだ。
そもそもイデオロギーなり、「普通にクチにできる、党是」など存在しない、『反共』の為の党だから。CIAの意図したままの。
その自民党のコントロールすら逸脱しそうな高市政権が、統一教会や参政党と結び付くのは当然なのだが
「チャレンジのない国は〜」のキャッチフレーズには、呆れかえった。
その掛け声で、大阪が関西がどうなったのか、それすら知らない国民が「また選ぶ」のなら、この国に未来などないだろう。